昭和四十七年六月十六日 朝の御理解
X御神訓 信心の心得 一、疑いを去りて信心してみよ。みかげはわが心にあり。 一、忌み汚れは、わが心で犯すこともあり払うこともあり。 一、祈りてみかげのあるもなきも、わが心なり。
難儀になっていく人、自分を苦しめる。そして難儀な方へ難儀な方へと行く人。そういう人達の事を「あの人は我心からですたい」と言いますね。
自分の心から難儀をしていく、難儀をせんでよかったのに自分の心から、難儀な方へなっていく。わが心から自分の心からそうなっていく。疑いを去りて信心して見よみかげはわが心にありと。ところが仲々信じられない。そこで信じれれる事に為に、人が信じられ、又神様がいよいよ信じられる為に精進しなければならないという事になります。
だからそれはどういう精進をするかと言うと、たとえば子供が信じられない。家内が信じられない、主人が信じられない。どうも店員が信じられないというような信じられないという事は、やはり不幸せ、それではやはりみかげは頂かれない。
そこで私はまず、神様が信じられ、人が信じられる事の為にです、人ではなくて、自分自身が信じられる生き方を目指さして貰わなければならない。
これは私自身の事でもそれを思います。疑わしい、疑うという事はきつい事がある しかもその疑うという事はおかげの頂けない心の状態ですから、そんなら、自分自身が信じられる私になる。子供から信じられる親になる。家内から信じられる私になる。人からいうなら、信じられる私になる精進をする。
そこから不思議に人が信じられるようになる。信じようと思うて信じられるものではなくて、やはり信ずるという事も神様に許されるという事がわかります。
色眼鏡でずっと見られるのも嫌ですけれども、色眼鏡でず-っと見らんならんのも嫌な事ですよね。それにはやはり、自分自身がいよいよ無色透明になっていく稽古を本気でする事です。簡単に疑いを去りて信心してみよ、みかげはわが心にありとまあ簡単に教えておられますけれども、その疑いを離れるという事に修行がいるのです。 どうも私共はそこに何か、実証がなからんと信用出来ないような気がするのですよねえ。これはデパ-トで千円で買ってきました、ほんなこつじゃろうかと、それでそんならデパ-トに行った時に見てくるといいです。ほんなこて千円だった やっぱあの人の言った事はほんなこつじゃったという事になる。ちった、うだるごつ言いよってじゃろと、はじめから人をそうして疑うてかかる。
もうその点、私共は、おかげ段々頂いてきたと思うですねえ。それが例えば嘘でもね、ああそれは本当じゃろうと信じられる事がおかげを頂く元になるのですよ。
だからここではね、神様を信ずるという事だけじゃないと思うのです。もうほんにあの人はまんまんしせんのごたる人と、まあ言いますたい。もう人の言う事はすぐそれを信じてしまう。しかしそういう人はね、そこでは騙されたごとあるけれども、そういう人はおかげ受けるですねえ。
先日から、久留米の古賀さんが朝鮮旅行をしておられました。それで朝鮮に行かれる朝でしたか、飛行場から電話がかかってきたそうです。私は忘れとったけんで親先生に申し上げといて下さいと。どういう事かと言うと、久留米の岩田屋で韓国の有名な、ここでいうなら,人間国宝とでも言いますか、その人の個展が開かれておる。
だから先生に是非いっぺん見に行ってくださいという電話がかかってきたというのです。だからもうその日にでも行きたかったんですけれども、折角わざわざ電話でもかけてくるのですから、何か見るべきものがあるだろうと思う。
ところがその日は行かれません。あくる日は美登里会、十三日はもちろん十三日会で行かれん。十四日にしか行かれない。それで十四日に高橋さん、久富さんと参りました。まあ行って驚きましたけれども、とにかく、ああゆう美術品を売ってるところにあってましたけれども、一萩、二楽、三唐津というて、もう最高の焼き物とされております。又事実いいですよねえ。唐津でも、萩でも、楽でも。
ところがね、朝鮮のその方の焼き物を見たら、もう他のものが全然見られんのに驚きました。力の相違と言うですかね、それはもう本当に抹茶の碗ひとつでも握って、離そうごとなかごとよかです。それはもう私は本当に驚きました。
その中にです、先日韓国から帰って来られる時に、お土産に買うて来てくださっておった大き高麓焼きの壺があります。それと寸分違わない。只、うちのが図柄がちょこっといいなあ、口のあたりがうちのがちょと優雅だけれど、というのが一番正面に飾ってありました。それで大体これはいくら位するもんじゃろうか、丁度、十三日会の日でしたから、秋永先生やら四、五人おりましたから、まあ、七、八万位するじゃろうか位だったです。
ところが二万五千円と書いちゃる。これはえらい安かったねと言いよったら先生、それは○が多いかですばいと、二十五万じゃった。それを見てから、これがそれだけの値打ちのあるもんだという事がようわかった。まあ本当に十四日ぎりぎりじゃったそうですが、私はそれを見てから驚きましたけれど、と同時にです、とても、そげん言われたっちゃそげんがたあるものという事は、いくら私でも信用出来なかったですねえ。けれども実際にそこに正札がかけちゃるのを見て、もちろんこれは売ってんよか、売らんでんよか、ちゅう位な感じで御本人がそこに見えてましたが、それこそ、一万円でもまけて下さいという雰囲気も全然ありませんでしたがね。まけもしなさいますが、それだけ値打ちのあるものを、例えば頂いておりましてもです、こちらが真実の事がわかってないと、がたあるじゃろうかとやっぱ疑う訳です。
為にやはり真実に触れなければいけません。本当なものに、それにはまず自分自身が、真実な心にならなければ、真実は心に映じてきません。いわゆる真を求めるという事はそういう事だと思うのです。
だから疑いっぱいではいけない。だからね、それを信じる為の私は精進をさして頂かねばならないと思う。疑うちゃならんならんと頭を打ち振っただけでは、はいるもんじゃありません。真実なものに触れなければ・・・自分自身のやはり心の上に人からでも、いわゆる神様からでも、家内からでも子供からでも、あなた自身が信じられるあなたにならなければいかんのです。
反対に言うてもいい。子供から親をみる。どうもうちの親は信用出来ないという前に、自分自身が信じられる自分にならなければならない。自分自身が疑われる内容をも持っておるのだという事を、先に気づかせて頂く事が真実です。
忌穢れはわが心で犯す事もあり、払う事もありと。例えば縁起でもない時に塩をまきますよね。今はあんな事するかどうか知りませんが、お葬式なんかに行って帰りには、家の中に入れさせません。「ちょっと表に待っときなさい」と言うて表まで塩を振っといてからしか入れない、というように忌穢れを嫌う。
そして塩を振っただけで忌穢れは払われたような気がする。その清められたような気がするその心がおかげを呼ぶ心になるのです。だから、やはり心にかかるなら、そうしなければいけません。塩をまかにゃいけません。塩をまいた位で自分の心がスキッとするならば。
けれども、これが外での場合には、ちょっとどこかへ入ってから、塩を貰うてくるという訳にはいかん。そこで私共がいつでも、どこでも、どんな場合であっても、自分で払えれる心、そういう私は心をいつも求めて信心させて頂かなければいかん。
自分自身のいわゆる、わが心がです、これは縁起でもないと思うたら、やはり縁起でもない事を呼ぶのです。それをおかげと頂けば、それをおかげにかえていく事ができる程しにわが心というのは、微妙なんです。
成程、わが心で貧乏しござるたい、わが心で難儀しござるたいと言われても仕方がないとですよ。それがそんならわかっておりますけれどもです、いちいち例えば塩をまくような手があれば方法があればいいけれども、塩だけではどうにも出来ない事柄が沢山あるという事。
私はこの時いつも例を申しますように、善導寺の親先生のお供をして御比礼本部参拝をさして貰いよったある月参りの時でしたが、丁度亡くなられました大奥様ですねえ、ばばしゃまも一緒でした。三人でお参りをした。表へ出た途端に下駄のはな緒が切れたんですよ。そしたらばばしゃまが「ああよかった」というてから、おかげ頂いた。これが途中でどん切れとるなら、裸足にならにゃんとこじゃったと言うてすぐひっくり返して、又次ぎの別の下駄をはいて来られました。
たったそれだけですけれどもね、もう本当に何十年の信心の稽古をさせて頂いて、全ての事をおかげと頂かれる。間髪入れずにおかげ頂いたと言えれる。思えれる心が育っておられるなあと思うて大変感心した事があります。
大体信心は、強かったです。例えば旅行しょうとする、その旅行の寸前におろしたばっかりの下駄のはな緒がぷっつり切れた。これは何が悪い事の前知らせじゃなかろうかと心にかかりながら、旅行する。そこから本当に難儀な事が起こってくる。難儀を呼ぶのです、そういう心が。そんなにいわゆるデリケ-トなんです。
私共のおかげとのかかわり合いというものがですね、おかげ頂きたい。けれども自分自身の心の、只ほんな使い方ひとつでおかげにもなれば、いわば災難を招くという事にもなるのです。だから日頃ね、如何にこの心というものを大事にしてです、いわそる和賀心を焦点としての目指さしての信心をしていなければいけないという事がわかります。
途中でも切れとったら、裸足にならにゃんとこじゃった。おかげ頂いたとこういう頂き方なんです。大体信心は出来とっても、もし、そういう事になったら、これは何か縁起が悪か、何か悪い事の起こってくる前知らせじゃなかろうかと、そういうふうに思う事は、いわば、忌穢れを自分で自分の心で受けた訳なんです。
おかげ頂いたという心はです、例えば忌穢れがここにかかってきよっても、それを払うた事になるのです。わが心次第なのです。はあ-、夕べは夢が悪かったけんでとよい夢を見りゃ気持ちがよい。悪い夢見ると気持ちが悪い。そういう事じゃないです 例えば、そんなら、悪い夢でも頂いたら、こういう事がおこってくるような事になるから、用心しろよと、いわば自然は教えておられるのです。神様はその事を教えておられるのです。ですから心がけを変えてさえいきゃ、この災難はのがれられるぞとういう、いわゆる前知らせなんです。ですから、お取次でも頂いて、その心を払わせて頂くところから、おかげになる訳です。そんなら反対にこれはよいお知らせでもそうです、今日はよいお知らせを頂いたから、よかこつのあるじゃろうというて、ある事じゃない。それには、それだけの心のいよいよよい事の頂けれる、よい事に合われるおかげを頂けれる心を使うていかなければ、例えばよいお知らせを頂いておってもおかげになって参りません。
だからよい事のお知らせを頂いたら、本当に自分の心をよい心に、いつも心の精進をさして貰うという事が、よい事が起こってくる、又は悪い事は払うていくというような働きになって、忌穢れはわが心で犯す事もあり払う事もありと、わが心次第である。祈りてみかげのあるもなきもわが心と、ここもやはりわが心があります。あの人がいくら神様にさかたんぼうったっちゃ、なんのおかげ頂かっしゃろかいと、あの人の心でなかならという意味の事をよく言うでしょうが。いくら、さかたんぼうったっちゃおかげ頂くもんか、お前ごたるとがと。
確かにその通りで、その為にはやり、いろいろと修行させて貰う。例えば本当に祈るという時、祈る前にひと修行させて貰う、神様にお願いをさして貰う。いわゆるいうならば、真心のお供えでもさせて頂いてお願いをする。
おかげ頂くはずですよね。もうそのお供えをしょうという時既にその人の心は清まっとる。いうならば、汚い心ではなく美しい心です。さあ今から祈りに入るという時に、それこそ水行でもしてごらんなさい。水でもかかってごらんなさい。それは形の事のごたるけれども、心まで清められた気が致します。それが修行の値打ちです。
水かかっただけじゃから、体が清まっただけのごたるけれども、そのはまりがです自分の心までも清めるですから、水でもかかって御神前に出てごらん、今まで出来なかった御祈念がもう実に有難い御祈念が出来るです。だからやっぱり修行は大事です 祈りてみかげのあるもなきもわが心。まず自分の心の検討から先にしなければいけません。こげな心じゃおかげ頂くまいと気がついたらです、やはりそれ前にひとつ修行でもさせて頂くという事。
例えば、自分の汚いものをです、まず身の皮はいでですというような、例えば教祖さまはお供え物とおかげはつきものではないと、教えておられます。それは清らかな心でです、真心をもって願わせてもらうところから、おかげは必ず頂けるものですけれども、お供えとはだから自分の汚いものをはがして貰う。お賽銭は十円でもです、おし頂いて誰でも金は命とさえ思うておる人が、沢山ありますように、そういう命とまで思われるようなものを、例え十円でもおし頂いてお供えするのですから、清まるはずですよ。
自分の命をお供えしよるのだから。十円がた清まる事が出来るです。そういう意味でね、お供えという事がどういう意義を持つかという事がわかると思います。
祈る前にまず自分自身の心を検討して、こんな心の状態ではと思うたら、それこそひとつお水のひとつもかからして頂く勇気を出してごらんなさい。御神前る出るともう座った途端に神様と交流するのじゃなかろうかというような、いかに、清々しいとか清らかな心というものが、神様にかようかという事がわかります。
今日は三つの御神訓の中から、わが心という事について、いろいろ聞いて頂きました。勿論、このわが心というのが、いわゆるわが心が有難いという事になっいく稽古を常日頃させて頂いておる訳でございますけれども、それでも只、わが心ならわが心だけでというものを、ここで頂いてみるとです、そのわが心が和賀心になる為に、清らかになる為に美しゅうなる為に、又自分の心が疑わんですむ心の事の為に、自分自身が信じられる私になる事の精進をさせて頂くところから、それは人を見たら泥棒と思えといったようなものではなくて、もう、どの人もこの人も善い人に見えてくるというおかげが頂けてくる。こちらが善い人になれば。
それを例えば、眼鏡違いであるような場合であっても、例えば騙されておってもです、そういう心におかげがあるとおっしゃる。そういう心にみかげがあるとおっしゃておられるのですから、騙された位の事ではありません。みかげを受けていくという事の方が大事なんですからね。
どうぞ。